333DISCS PRESS

●西荻の街角から〜トウキョウエコノミー

東京本とモンドセレクションのゆくえ
(開発かコミュニティか、を乗り越えて)

文責:三品輝起

前口上から(読み飛ばしてください)。おマエ、西荻の街角からどうのこうの、という題名だけど、まったく西荻がでてこないじゃん。という声が聞こえてきたので、最近の村の印象を記すと、
・いろいろ不安もありグローバルなノマドとなるために閉店した自営店が数軒(ちょっとうらやましい)
・新しくできた自営店が数軒(なんだかうらやましい)
・ある日、地球(あるいはサン・ラ、本居宣長)レベルにまで徳が積みあがり、啓蒙主義的な自営店になっていたところが数軒(すばらしい)
・なぜかできてすぐ潰れた自営店が1軒(なんだかかなしい)
という感じで、合計すると相変わらず楽しいところだから、うちの店もがんばっていきたい(いまの夢はモンドセレクション。できれば金賞を受賞したい)といったところだ。

あとは、トーキョー何とかがどうのこうの、という題名だけど、おマエまったく東京がでてこないじゃんという声も聞こえてきたので、最近の東京について少し(「エコノミー」に関しては今回もまったくでてきません、すいません……)。

えー、いろいろと事情があって「東京」と名のつく本は、でるとすぐに買って読んでるのだが、震災以降もいくつか上梓されてる。売れてそうなものだと、6月にでた姜尚中トーキョー・ストレンジャー集英社(注1)、7月にでた建築家・隈研吾とジャーナリスト・清野由美による新・ムラ論TOKYO集英社新書(注2)などがあった。

東京本を3つにむりやり分類すると、
(1)アド街=泉麻人/東京人/ブラタモリ的な「文学系」
(2)どの街が伸びてどの街が衰退してる、どういう開発をすべき、といった日経/都市計画的な「経済学系」
(3)上記2冊もギリギリ入ると思われる「社会学系」
みたいな感じだろう。で、主に追っかけてきた(3)社会学系のお題目の一部分は、地震前でも後でもずっーと同じままだ。それはばらばらになってる社会の紐帯をどうするんだ、という話である。ただ震災後は「本気」で焦っているというだけだ。

でも一方で、都市論のなかで震災後にせりだしてきた論調もある。東京都が進めてる「天然ガス発電所プロジェクト」とか、港湾や河川の大規模な護岸工事、防災計画の抜本的な見直しとか、海岸部で壊滅した街を、高台を切り崩して移住させるタイプの復興計画とか、つまりお上が強く関与せざるをえない、ある意味では旧時代的な開発にいやおうなく注目が集まっている。また電力や水道といった、普段は湯水のごとく都民に供されてきた、インフラの脆弱性(と盤石性)にも気づかされた。オレに言われる必要もないでしょうが。

たとえば零年代に隈研吾氏を「丹下健三的」な大規模な都市計画を批判する「負ける建築」家として人々は拍手喝采で迎えたように、これからは脱権威的な下からの開発なんだという流れから、そういえば社会というのは景観やコミュニティがうんぬんという下からの動きだけ構築されてるんじゃなくて、上からの開発(優れたインフラストラクチャー)があったうえで成り立ってるんだった、という(当たり前の)ことが露顕しただけかもしれない。

だから上下の役割分担をきっちり認めあって、そうすれば両者をつなぐNPOやら地方分権やらの意義も自動的に導きだされるだろう、っていう議論もでてきている。なかにはその両方を止揚していこう、という大胆なアイデアだってあるようだ。9月にでた思想地図beta vol.2(コンテクチュアズ)という思想系のムック本にも、そういう話が載っている(注3)。でも長くなるので割愛する。

アメリカにはジェイン・ジェイコブズやリチャード・フロリダといった乗り越えるべき都市論の巨人がいて、最近では彼らを下敷きに(2)と(3)を縦横に行き来する著作がたくさんでてる(らしい。というのは古典以外読んだことがないので……いま必死で、鹿島出版会から4月にでたジェイコブズ対モーゼス(ニューヨーク都市計画をめぐる闘い)を読んでます)。これからは東京本にも、開発かコミュニティかを乗り越えようとする、含蓄のあるものがでてくるかもしれない。というわけで、再見っ(ツァイチェンッ)。

注1:『トーキョー・ストレンジャー』は、もう姜さんの顔写真載りすぎ(スナップが200枚はあるだろう、235ページなのに)。東大教授ミーツちい散歩、といった風情で、東京30カ所を巡る軽いエセー。

注2:『新・ムラ論TOKYO』では、下北沢、高円寺、秋葉原、最後は長野の小布施を2人で歩きながら、「人が安心して生きていける共同体のありかであり、多様な生き方と選択肢のよりどころとなる場所」と定義した「ムラ」を探していく。08年にでた『新・都市論TOKYO』の続編にあたる。この「都市論」と「ムラ論」は、それぞれ執筆された後に起こった、我々の社会の転換点ともいえる事件の予兆をはらんでいる。つまり、前作では8ヶ月後に起こるリーマンショックと世界経済の停滞を。そして今作では、未曾有の地震と津波、その後の原発事故によって奪われた「安心」という価値を。清野氏は「あとがき」で「都市を覆っているグローバリズムという経済至上システムのプレッシャーから逃れるべく、私たちは『ムラ』の可能性を探ろうと考えました」と書いているが、大人な隈氏がはっきりと、新自由主義のアンチテーゼとしてムラが語られる陳腐さも指摘しているあたりに、本書が凡百のコミュニティ本と一線を画してる要因がある。「自然との共生」といったキレイごとではなく、人々の欲望を肯定しつつ、かといって趣味趣向が合う者同士の狭いコミュニティを超え、なおかつ経済至上主義といったマジョリティではない多様な価値のよりどころ。言ってしまえば、本書はユートピア論だ。だが、その思考の射程は、震災後の我々にもちゃんと届いている。と思う。

注3:佐々木俊尚「震災復興とGov2.0、そしてプラットフォーム化する世界」。まだよく飲み込めてませんが「垂直統合するのではなく、復興をプラットフォームとして政府自治体が提供し、それらをモジュールである被災地と非被災地がそれぞれの方法で、有効活用することによって、それぞれの温度差をそのまま生かし、しかしそれぞれのアプローチで復興を目指していく」とのこと。うーん。

三品輝起(みしなてるおき)

79年生まれ、愛媛県出身。05年より西荻窪にて器と雑貨の店FALL (フォール)を経営。また経済誌、その他でライター業もしている。音楽活動では『PENGUIN CAFE ORCHESTRA -tribute-』(commmons × 333DISCS) などに参加。今年7月、アルバム『LONG DAY』(Loule)を発表。