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●西荻の街角から〜トウキョウエコノミー

「DON’T READ THIS TEXT(広告的文章)」

文責:三品輝起

こんにちは、みなさまお元気でしょうか。ぼくはすっかり夏バテでお腹をくだしながらも、案の定、いろいろ取材してきてはパチパチとキーを叩いて記事に変換しています。ヒカリエ、蔦屋書店、ソラマチ、おもはらの森、代々木ビレッジ、タニタ食堂、ダイバーシティ……まだまだあったはず。
のまどわーかーのためのくりえいてぃぶすぺーすをしぇあしてみませんか? とか、ろはすでさすてぃなぶるなおとなのあそびばがつくりたかったんだよねえ、とか、ほんやのさいしんけいおとなぶんかのさいごのがじょう(本屋の最新形・大人文化の最後の牙城……書いててはずかしい)とか、いろんな言葉がぼくの夏を通り過ぎていって、すばらしいんだけど、どれもこれも「出会った瞬間から別れの予感」みたいな趣がある。
でもしかたない。ぼくのように仕事で「東京らしい消費文化」に焦点を当ててずーと観察してると、世の中はあの手この手で新しい価値を生みだそうと躍起だ。「新しくあれ」という号令からは逃れられない。重要なポイントだから忘れないでほしいのは、そこでは「古くてもいいじゃない」「ほどほどでいいじゃない」「普通でいいじゃない」という価値も、立派な新しい価値なのだ。それがいやなら黙して山寺にでも籠るしかない。気が遠くなるくらい根は深い。

去年、立派なグローバル企業の代名詞、パダゴニアの「DON’T BUY THIS JACKET」っていう広告が、クリスマス商戦まっさかりのニューヨークに登場した。たぶん要約すると「みんな偽善というかもしれないけど、クリスマスに浮かれてないで地球のために慎重に物を選び、消費をおさえよう」てな内容だ。日本でも「これ広告なの?何なの?」と話題になった。ふーんと思ったぼくも広告についてちびちび考えてきた。
名著、北田暁大『広告都市・東京(その誕生と死)』の復刊と、いまの東京の開発をからめた記事を書いたりもした。本書は、つぶやきも顔本もアマゾンのデータベース広告も全面化されてなかった10年以上前に執筆されたものだけど、消費社会の伴走者である広告というものの本質にせまっている。以下、要約をぼくの書いた記事から引用(長くてすいません)。
「『差異を作りだすためには、手段を選ばない』広告は、あらゆるメディアに寄生することで存在する。資本主義が成熟し、空間的な差異や、技術的な差異がかつてほど利益を生みださなくなってくると、広告はイメージの差異を作りだす。そして、つねにその社会における『脱文脈的』なふるまいをすることで目を引き、消費を高めていく。そうやって増殖したイメージによる記号が、充満し、資本主義を駆動していく社会を、社会学では『消費社会』と呼んでいる。(……)広告はあらゆるメディアに寄生し、姿を変えていくなかで、自身の『いかがわしさ』を認識し、ついには隠しはじめる。人々が、広告であることを忘れるほど巧妙に。それが実現されたのが、80年代のセゾングループによる渋谷の開発だった。つまり広告は都市をまるごとメディアに選び、寄生したのだ。氏は90年ごろまでの渋谷を『広告都市』と名づけ分析する。そして我々は、その『広告都市』が死んだ『ポスト80年代』に生きている」(某誌・2012年3月19日掲載)

……以上(長くてすいません)。よくよく申し上げておきたいのは、この議論において、広告の中身が善意であるとか悪意であるとかは関係ないということだ(ちがう次元ではとても重要だけど)。もっといえば広告と商業は本質的にはイコールですらなく、広告はイメージの差異と、人々の目をひく「脱文脈的」なふるまいにだけに忠誠を誓っているということである。

広告が都市に憑依して、いつしか廃れ、姿をくらましてから世界は20年たってる。東京でいえば、バブル後の再開発ラッシュにでてきた、セゾングループの哲学を引き継ぎアートやデザインといったものをうまく担保にしたヒルズ、ミッドタウン、丸ビルといった文化系商業施設。もう一方に、ショッピングモールに江戸だの昭和30年代だの自閉したコンセプトをくっつけた劇場型商業施設、という流れがあった。でも、いまやすっかり文脈的だ。「脱文脈的」な広告はつねに進化しつづけてるんだとすれば、どこにいっちゃったんだろう?
北田氏は増補された文章のなかで、ポスト80年代の広告として、目に見えないフェロモンのように拡散していくイメージを提出している(話は戻るが「このジャケットを買わないでください」というパタゴニアの気高い広告は、「目に見える」点では実にオールドスクールなものだが、広告に反する広告、いまであれば消費を抑制する投資というものが、もっとも広告の脱文脈的なふるまいであることも見逃せない)。

ここから先は勝手な憶測にすぎないけど、広告がフェロモンとか匂いみたいに広がってるとすれば、目の前にあるもの、目には見えないもの、美しいと思う感性や、正しいと信じてる思想、未来の夢や、過去の記憶、自分自身のものだと疑わない身体やふるまいに至る、あらゆるものをメディアに見立てたとしてもおかしくない。『インセプション』みたいだけど。
じゃあSNSはどうだろう。「拡散希望!」や「いいね!」といった楽しいシステムが、セルフプロデュースなのかマーケティングなのか虚空に向けらたものなのか本人にも判別できない新たな言葉を用意して、徐々に人々の自意識の形や思考やふるまいを変えているかもしれない。それは未来から見れば「広告的人間」のスタートラインを意味してる可能性だってある。しつこいようだけど広告が良い悪いの話じゃない。ともあれそれらを明らかにするのは、ずっと後の世代の仕事になる。
きっと80年代に渋谷を闊歩したかつての若者と同じように、いまを謳歌するべきなのだろう。それでも。すべての人やモノの間でイメージの差異化が自動発生する条件から、どうやっても逃れられないんだろうか。ぼくは本書から一握りの希望を受けとった気がしたけど、のまどわーかーのためのくりえいてぃぶすぺーすをしぇあしませんか、って何の話だったっけ、とか騒いで日々過ごしてるうちに忘れてしまった。この文章は、だれの文章なのか。

三品輝起

79年生まれ、愛媛県出身。西荻窪にて器や雑貨の店「FALL (フォール)」を経営。また経済誌、その他でライターもしている。音楽活動ではアルバム『LONG DAY』(Loule)を発表。ただいま冬のリリースに向け、アルバム製作中。