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●西荻の街角から〜トウキョウエコノミー:さよなら本たち

本読んでますか? 今回は本にまつわる話をしたい、書店とか、本の伝道師とか、教養とかそういう。

■はじめに

まず関係ない話から。世の中、なんで本読むんすか?という人も多いと思う。うーんそりゃ楽しいからだけど、それだけじゃない。ということになっている。現国の先生を筆頭に大人たちから(たいして読んでない人も含め)、教養をつける最良の近道なんだと教えられる、じゃあ教養つけて何かいいことあるか、といえば、知的労働につく人にとっては必要不可欠だから「ある」ともいえるけれど、みんなつくわけじゃないし、根本的に必要かどうかはあやしい。むしろ下手な教養でいろんなことを失うケースだってある。

中学で川上未映子や平野啓一郎あたりを読んで学校の友達と話があわなくなり、ニーチェやマルクスを無理して読んで無垢な人柄を完全喪失、クンデラやフロイトを恋愛に生かそうとしてレディに逃げられ、みつをや326を音読して俺を憤慨、あげく太宰や三島にはまって命を……とまあいろんなものを失う、可能性もあるのだ。

さて冗談はここまで。実は経済学でも、経済を成長させるために必要な生産性と知識の共有の相関については研究されている、あと暗黙知とか創発とかコモンズの議論とか。また頭のよしあしは読書より遺伝の相関の方が高い、という(ちょっと悲しい)報告もある一方、脳の発達と読字の研究が脳科学で猛スピードで進んでたりする。でも、それらはすべて社会全体で見れば、というマクロな話で、本読んだから人生いいことあったか、という答えを個人で実感し判断するこは不可能だろう。本っつったっていろいろあるし。

■本の業界

つづいてもまじめな話。永江朗さんの『本の現場』(ポット出版)によれば「この30年で出版点数は4倍になったが、いっぽう1点あたりの販売金額は半分になった」。97年を境に出版業界の売上減少は留まることなくつづき、それでもなお1日平均200冊という驚くべき数の新刊が出されるという状況。ネットやなんやで本離れが進んでんのに、というかそれ故に、出版社は小ロットで数を打ちまくるという悪循環がある。

たしかに店頭には数時間で読み終えて捨ててしまうような雑誌(いま読んでる『週刊ダイヤモンド』の新春号は1週間たっても読み終わりませんよ)、ベストセラーの三番煎じ、四番煎じが溢れかえっている、外身だけオシャレーにパッケージングしたりして。売上減少の原因は複合的だけど(楽しいこといろいろ増えたしね)、まあ質の低下に関しては出版流通の世界における2つの制度に求められる。

(1)清算を先にして返品ぶんを払い戻す特殊な「委託性」
(2)値下げという市場メカニズムを無効化する「再販制」

詳しくは本書をお読みいただきたいが、永江氏は、出版社は返品を上回る少部数の新刊発行を続けることで資金繰りをしている、と指摘する。「資金繰り」ってとこが真骨頂っす。そりゃ出せばとりあえず書店は買ってくれるわけだから、返品するころにまた出せばいい、という。まあ、現状はこんな感じということで暗い話はここまで。

■本の伝道師

本離れが進めば「本ってええもんよ」と説く者があらわれるのが受給のバランスというもの。だから本の伝道師みたいなのがいろいろいる。ブルータスでも対談してたけど、編集工学研究所所長・松岡正剛(まつおかせいごう・注1)さんとか、バッハ代表・幅允孝(はばよしたか・注2)さんなんかがよくメディアにでてる。前者を硬派伝道師としてするなら、後者はもう少し敷居の低い軟派な伝道師か。

あと硬派系だと立花隆さんなんかが有名だし、軟派系なら齋藤孝さんとかいる。

ともかく社会が複雑化し、不況もつづき日本のトレンドもダダすべりしていく不安な昨今。退職後の団塊世代などを中心に、知的好奇心が芽生えてくるのは当然のなりゆきだと思う。『思想地図』も売れてるみたいだし、教養本のたぐいが多いのもそのせいだろう。雑誌でもやたら本特集が目につく。しかし知識の積み上げを、インターネットを閲覧するようにてっとり早く行うことは無理ですよー。

幅氏を「軟派」と書いたけど、これは本離れしてる若者たちから広く支持されているという意味で、他意はない。活動をつぶさに見てると、いかに本離れしたした人に本の良さを伝えるかを、パフォーマティブにやっている印象だ。若者と本をつなぐ目的のためには、未開のあらゆる回路、文脈を使う(よって本を読む=オシャレみたいな意味付けも、いとわない)、というかなりの知略家でもある。

ぼくのなかでは、一番本読まない系の人(あとマセた中学生)に読書を指南してるのはヴィレッジヴァンガードちゃうかしらん、と思っている(あとジャズ聴かない系にブルーノートコンピを売りまわっているのも)。で、そこにそぐわない(あのサブカルぶりが嫌な)種族の人たちが幅さん需要なんじゃないか。そのへんを卒業して、つまりちょい読む系になったら、硬派な伝道師たちに進む、みたいな。まあそんな階段がある気がする。

■おわりに

『ぼくらの頭脳の鍛え方』(文春新書)というマッチョな題の新書が売れている、そのなかで立花隆さんは教養を「人類の知的遺産」と呼び、「教養教育とか、知的遺産の財産目録を教えることになります。しかし、いかにしてその全体像を教えるか」と悩んでおられる。まあ答えは、黙って(ネットじゃなくて)本を読め!ということらしいのだが(当面、読書の優位性はつづくらしい)、彼は教養と知識をわけて考えていて、全体像というか見取り図を教養、そのうえに専門の知識がのっかる必要を説いている。

これはスペシャリストvsジェネラリストという古典的な問題でもあるんだけど、うーんこれパンピーにどこまで関係あるんだろう?

お茶の間では『坂の上の雲』とか『竜馬がゆく』が流行ってて(本しか読んだことないです)、自分と重ねたりしてるかもしれない。子規や竜馬にとっての教養と、そのうえに乗っかる専門の知識は、そのまま彼らが成し遂げたことと結びついている、だからって誰でも知識が役立つポジションにいられるわけじゃない。また「地頭」と言ってしまうと身も蓋もないけど、維新や明治政府を支えた人々がいかに特殊な能力をもった人たち(というか脳味噌たち、というか秀才)だったか、という点はだいじ。

だいじ、つながりで言えば、ぼくの持論はこう。だいじなことは自由な考えを求めることだ。かつては読書しなくたって自由に物事を考えられる人はいっぱいいたはずだ(一つのことを極めた謙虚な人々のように)。

でも情報が蔓延し錯綜している都市では、一見自由な振る舞いの多くが外因によって決定されている、という可能性に疑問すら感じなくなっている。そして毎日が祭となった。そんな都市生活者には読書が役立つんじゃないか。自分を形作る外因を掻きわけ、なるべく自由に考えられる足場を確保するために。その教養という足場を作った上で、各々の目的のために読書すればいい(というかやめてもいい)、創作のためでも婚活のためでもマネーゲームの超克のためでも何でもいい、だれかのように、過去に戻るためだけに頁をめくったっていいのだ。

最後にセイゴー氏のありがてえ御言葉あげます。「本には人類のあらゆる英知と行為が、また人々の欲望と消費のすべてが折りたたまれています。読書を一過性の体験から開放し、読書をする社会を拡張していくには、ブックウェアともいうべき本をめぐる生態系のようなしくみから考える必要があります」。ではでは、よい読書を!

■リンク

注1:セイゴー先生が丸善と組んでつくった本屋に「松丸本舗」がある。本気の本好きも楽しめると思うのだけれど。
http://www.matsumaru-hompo.jp/

注2:BACH(幅允孝)。六本木のツタヤとか、SHIBUYA PUBLISHING BOOKSELLERS(渋谷・神山町)とかで本棚を監修、というか本棚を通じて店をディレクションしてる。スタバで買ったばかりの本がそく読めるとか(ポンギ)、ガラス張りで本を編集してる風景が見れる(渋谷)とか、iPodと同じで容れ物をかえことで、本と人の関係性が変わり、ひいては本を読むきっかけにつながる(のかな)。そのへんもヴィレヴァンと同じ構造。松丸本舗より敷居が低くてオシャレーですので若者向け。
http://www.bach-inc.com/

 

三品輝起(みしなてるおき)

79年生まれ、愛媛県出身。05年より西荻窪にて器と雑貨の店「FALL (フォール)」を経営。また経済誌、その他でライター業もしている。音楽活動では『PENGUIN CAFE ORCHESTRA -tribute-』(commmons × 333DISCS) などに参加。