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●西荻の街角から〜トウキョウエコノミー:コミュニティコミュニティ(前半)

■ 前半の「はじめに」

いやー暑いですね。あまりに暑いので、わたくしの大好きなサッカーの話をしようかと思ったけど、WCも終わったみたいだし、代表メンバーもマルクスと田中とトゥーリオの3トップ以外、ぜんぶ忘れてしまったのでやめとこう。

というわけで今回は近場で、わが街・西荻の話にします。んで、そこから飛躍して、巷に横溢する「コミュニティ」という言葉について考えてみたい。コミュニティの復権、コミュニティと地域、都市のコミュニティ、コミュニティとコミュニケーション、コミュニティいいよね・だって人間だもの。などなど。みんな大好きコミュニティ、でもいったいなに?

■ 西荻「村」ってなに?

個人的な話だけど、わたしは西荻窪という小さな街にいる。中央線で新宿より西に15分、東西を荻窪と吉祥寺にはさまれている。ときどき「村っぽい」なんて揶揄されたりする。たぶんそれは西荻の独特の空気をうまく言いあらわしてる。

街はアンティーク屋と古書店が多いことで知られ、また都内でも知る人ぞ知るギャラリーや飲食店なども点在している。中央線沿線にかつてはあったヒッピー文化をひきつぐ店も残ってて、エコロジーからスピリチュアルまで混在してる。あと街の規模のわりに、ライブハウスや練習スタジオも多い気がする。

隣の吉祥寺にくらべ地価がずいぶん安いので、若者でも店がだしやすい。だから経済原理にあんま基づかない、ユニークな店がいっぱいある。それから、フリーの編集者とか漫画家とか小説家とかライターとかデザイナーとか、おかしな時間にうろうろできるフリーダムな大人たちがたくさん住んでる。そんな雰囲気に惹かれて引越してくる人もけっこういて、文学やら文化やらなんやらを考えるNPOのイベントも流行ってる。

つまり個人事業主や自由業者の割合が相対的に多くて、大きな資本があまり入り込んでいない。だから利便性は高くないけど(土日に中央線とまらないし)、その空気が好きな人が集まってる。都会の「村」とはそういうことだ。ほんとうの村落とはちがう。

 

■ テーマパーク村

さて以前、そんな西荻窪に東浩紀さんという哲学者が事務所を構えていた。店にも来てくださったこともあったんだけど、ある本で西荻のことを「サブカルチャーと全共闘的な夢にまどろんでいるテーマパーク」だと喝破してた。びっくりしたけど、とっても秀逸な言葉である。

店をもって、たくさん知人もでき、街のイベントに関わったりして、西荻を好きになればなるほど、この言葉の重みが増してくる。こりゃ、自分や、自分と似た考えを共有できる人にとっては居心地いいけど、他方、そうじゃない息苦しい人もいるかもしれない、って。一部の人々の理想やノスタルジーを叶えるための、閉鎖的な空間かもしれないという意見を、けっして忘れちゃいけない。コミュニティはつねに排除の論理をはらんでるのだ。

 

■ 美美美のコミュニティ

街おこしの会合というのをいくつか取材したことがある。アートで、スローライフで、デザインで、サブカルで、歴史で、街おこし。いっぱいあるけど、どこに行っても、なんの疑いもなくコミュニティを謳いまくる人ってけっこういる。ただの「仲良しごっこ」だけど、楽しそうだからまあいっか。でも補助金なんかもらっちゃってる場合は、他人事ながら心配になったりする。

ちょっと脱線するけど、「コミュニティ」に付随するマジックワードに「美」というのがある。本屋に行くと、美がどーのこーのというのが焼いて捨てるくらいでてる。美しい形、美しい身体、美しい自然、そのままが美しい・だって人間だもの。先日、知人がギャラリーをたちあげて、さっそくホームページを開けたら、でかでかと「心の底から生まれる、自然で本当の美」とかなんとか書いてあった。うーんすごい。

美意識はそれぞれコミュニティを形成してる。そんで、たがいに正統さを競いあってる。人と人を美でつなぎながら、同時に分断してる。これは芸術の本質的な傾向かもしれない(ドイツや日本のロマン主義と、ナショナリズムの関係については研究所が山ほどでてるので読んでみてくださーい)。でも今日は長くなるのでやめておこう。美が媒体となったコミュニティって案外多いし、難しいのだ。

 

■ 郊外論ってなに?

話は戻って、なんで街おこしの会合でにコミュニティの議論が頻出するのか。それには都市論における前提である「郊外(=ニュータウン)論」を知るとわかりやすい。というわけで超省略して説明を。

まず戦後しばらくして、都心の過密化を克服するために、「ニュータウン」という郊外住宅が日本中で造られた。まあ住居を安定供給できたのはよかったんだけど、バブルもはじけ90年代になると、あらゆる学者がよってたかって、地域コミュニティの崩壊とか、均質空間がどうたらとか、犯罪の低年齢化とか、家庭の崩壊とか、そんな一連の問題を郊外と結びつけて論じるようになった。そうやって形成されたものが「郊外論」であった。おわり。

まあホントかどうかは知らないけど、ひっくるめていえば、ニュータウンに象徴される問題とは、あらゆる意味でのコミュニケーションの「分断」だった、という認識である。たとえばここに『私たちが住みたい都市』(平凡社)という、東工大でおこなわれた一連のシンポジウムを集めた本がある。「分断」について語った西川祐子・京大教授の発言を見てみよう。

「ニュータウンの外の世界とニュータウンは一目でわかるほどはっきり分断されていますし、同じニュータウン内でも、賃貸、分譲、それから公営の街区はそれぞれ全く違いますし、それから、昼間は女の世界で、夜になって初めて男性が帰ってくるという意味でも分断だと思うんですが、それはやっぱり戦後住宅理論が、分離、閉じて区切るということをキーワードにしていたからじゃないでしょうか」

そして「次には開く、開いて異質なもの同士を混ぜる」という議論にすすむ。実に魅力的なロジックである。気づけば、21世紀になって猫も杓子も「コミュニティコミュニティ」と連呼してる。わたしだって「開いて異質なもの同士を混ぜる」という発想の魅力にとろけちゃいそうだ。そんな世界をたまに夢想したりもする。

 

■ つながりたい指向

まあ夢想はするけれど実際のところ、趣味、聴く音楽、ファッション、美意識、食べるもの、女性のタイプ(これは関係ないかー)、所得と就労形態、ナショナリズム、宗教観、あげくイデオロギー……、同じ都市にいながらあらゆる価値観において分かれている。顔をあわせなくてもいいくらい都市のゾーニングが進み、互いに冷笑することもないほど細分化してる。その状況を、ものの本では「タコ壷化」とか「趣味の共同体」とか「島宇宙」とか書いてあったりする。

たとえば仕事柄いろんなクラフト系のイベントを見たりするけど、「手仕事を介して人と人がつながる」みたいなグループ展ってめっちゃ多い。あらゆる作り手が「つながるつながる」ってがんばってる。また、そんな永遠の「つながりたい指向」をうまくつかったビジネスも溢れてる。ミクシィはいうまでもないけど、たまたま先日視察した「the SOHO」なんかも一皮剥くと、つながり欲求を満たしてくれる秀逸なビジネスだなーと思った。

また各種ワークショップ、セミナー、教室なども激増してる。シブヤ大学なんかも近いかもしれない。あと、ある街おこしイベントの方が言ってたけど、ボランティアスタッフの需要ってのもすごいらしい。ここまでくると、そこに他者はいるのか?なんて書生じみたことを訊くのは、もはや時代遅れだろう。

 

■ 前半の「おわりに」

まじめな話、昔だったら地域や家族、男性だったら会社という疑似家族ともいえるコミュニティが自己承認をしてくれた(「会社共同体」なんてよばれて海外から研究されてました)。それらが壊れつつある。

でも完璧とはいえないけど、都市部の人々は小さな集団にわかれることで、さまざまな形で自己承認してくれる代行システムをつくってきたようにすら見える。もはやコミュニティは「居場所」と同義になってる。おそらく、そこでは自ら居場所をつくることのできる強者と、居場所をひたすら求める弱者が混在してて、世界は日夜、星屑のように小さく小さく分裂している。

さーて。今のところ、わたしにとっては居心地がいいけど、みなさまはどうだろう。自分も学生のころは苦労した記憶があるかも。まあ漱石先生を読むと、都市問題って100年前からなーにも変わってない気もする。でもニュースを見てると、社会から消えていく人の数が先進国ではズバ抜けて多いみたいだから、居場所には深刻な孤独が蔓延してるのかもしれない(経済学者なら「失われた20年」のせいだと断罪するだろう)。

後半はコミュニティに関する少し変わった視点をいくつか紹介したい。さようならー。

(後半につづく)

 

三品輝起(みしなてるおき)

79年生まれ、愛媛県出身。05年より西荻窪にて器と雑貨の店「FALL (フォール)」を経営。また経済誌、その他でライター業もしている。音楽活動では『PENGUIN CAFE ORCHESTRA -tribute-』(commmons × 333DISCS) などに参加。