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●西荻の街角から〜トウキョウエコノミー:コミュニティコミュニティ(後半)

■ はじめに(「おわりに」につづく)
男性諸君に朗報だ。なんとある日、信頼できない友人から「女性にもてる方法」がメールで送られてきた。ありがとう。「星野源って誰!? 文系女子のハートをつかむ確信犯」。ふんふんなるほど「お腹が弱い」というのはポイント高いのか。やっぱりなー、ってなんでやねん。 どんな時代やねん。などと言いつつも、ちゃっかりCDを借りて友人と一緒に聞いてみた。で1曲目「ばらばら」の歌詞が流れてくるや、お互い顔を見合わせて、こりゃもてますわな、とうなづいたのだった。

<ただいま歌詞検索タイム>「おわりに」につづく。

 

■ 11冊のコミュニティ論

さて、というわけで後半(前半→)は、コミュニティつったっていろんな議論があるんだ的な、11冊の本を140文字以内で紹介してみたい(コミュニタリアンならぬツイッタリアンという、140文字以上は読めない人間が激増してると聞いてますので)。今後のみなさまの見取り図になれば幸いだ。

 

(1)広井良典『コミュニティを問いなおす』ちくま新書
こりゃよい入門書。都市論、地方自治、社会保障、医療、プチ哲学までかなり幅広い角度からコミュニティを考察してる。OECD調査による「社会的孤立度」や「自殺者数」で日本がぶっちぎりなのは有名だけど、「人生前半の社会保障」や「公的な土地活用」っていう重要な国際比較データも載ってる。

 

(2) 竹井隆人『社会をつくる自由』ちくま新書
延々と仲良しごっこやってたらデモクラシーが死ぬぞ。という「排他的・仲良しごっこコミュニティ」への辛辣な批判に満ちた一冊。デモクラシーは責任をともなった自由な利害対立のなかにしかない、てなわけで、あの悪名高き「ゲーテッド・コミュニティ(Gated Community)」すらも擁護している猛者だ。

 

(3)若林幹夫『郊外の社会学』ちくま新書
上記の本がゲーテッド・コミュニティ擁護なら、こっちは郊外擁護という珍本。前回も書いたけど、90年代をつうじて郊外は「分断」の象徴的な場として批判的に語られてきた。10年後、多摩NTから筑波 EX沿線に舞台を移し、やっとこういう反対意見がでてきた。ちなみに氏は都市論の泰斗であられるよ。

 

(4)平田オリザ『芸術立国論』集英社新書
政府の中枢に入りこんで、芸術にはこれこれこういう公共性があるんだから、国家よ、我々にお金を出しなさいよ。という日本の狭い芸術界からは村八分にされそうなロジックを、これほど戦略的に展開してる人も珍しい。芸術関係の本はあえてとりあげてないが、本書はコミュニティ論としてもおもしろいので。

 

(5)速水健朗『自分探しが止まらない』ソフトバンク新書
わは! 最高の題名ですね。自営で3年くらい経つと急に、社会がどうのコミュニティがどうの人と人をつなげてどうの、とか立派なことおっしゃる善人を五万人ほど見てきた(うそ5人)。自分探しはインフラ化してる。根源の欲望を抑圧しちゃいかん。それを見過ごすとコミュニティは危険な密室空間となる。

 

(6)ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』木鐸社
「導くべき結論は、ユートピアにおいては、一種類の社会が存在し一種類の生が営まれることはないだろう、というものである。ユートピアは、複数のユートピアから、つまり、人々が異なる制度の下で異なる生を送る多数の異なった多様なコミュニティーからなっているだろう」。氏は唯一最善のユートピアを断固反対しながらも、他のすべてのユートピアの自由競争を認める。このメタ・ユートピア論的な方法でしか全体主義を回避することはできないんだ、というアイデアはなかなか超えられない。読後はマッキンタイアとロールズなど各種反対意見をちゃんと勘案して、どういう制度設計が必要なのかご一考あれ。

 

(7)宮崎駿『マンガ版・風の谷のナウシカ』徳間書店
ノージックの諸作と匹敵する、高度な思索をともなったエンターテイメント。ユートピアなんてない、という出発点からユートピアと正義の臨界点を深く考え抜いている。ポーニョポーニョポニョおじさんからは想像できない、思想家・宮崎駿がここにはいる。今年大流行のサンデル先生に感銘を受けた方もぜひ。

 

(8)柄谷行人『トランスクリティーク』岩波書店
こんな意見も一部にあるということで一応。コミュニズムとコミュニティの議論って近接してる。だからコミュニティ論の森を彷徨ってると一度は出くわすかも、名前も似てるし。目の敵にする資本=差異化を、国家から自立した消費者協同組合で対抗って構想はおもしろそう。でも実際ところどうなのかな?

 

(9)ハーバーマス『事実性と妥当性』未来社
うっとうしいくらい難解なので老後のお楽しみにでも。コミュニティ論の大風呂敷を広げに広げると、ミスター・公共性ことハーバーマスに辿りつくと思ってる。民主主義とは何ぞ。それは権力や法の妥当性であり、公共圏での不断のコミュニケーションによってのみ保たれる。じゃあどうやって公共圏を守るか。

 

(10)久繁哲之介『地域再生の罠』ちくま新書
昨今のコミュニティ論のなかで、もっとも支配的な主張が「地域主義」であることは言をまたない。歴史でもスローフードでもアートでも何でもいいが、スカスカになった社会の紐帯としてどう機能するのか、という視座が必要。本書では地域活性化の成功事例とされた街の欺瞞と、その末路をあばいていく。

 

(11)『雲のうえ』北九州市
暮らしブーム経由のローカリズムってのは大抵アレだけど、この地味な地方自治体がだしてるフリーペーパーには最大の敬意を払いたい。我が国の風景が完膚無きままに均一化されようとも、日常から無限に物語は紡げるという証明だ。題字=牧野伊三夫、AD=有山達也、編集=大谷道子という都会な布陣。

 

■ おわりに(「はじめに」のつづき)
さて、ここまでがんばったので「男性諸君に朗報だ」のつづきである。

<ただいま歌詞検索タイム→

はい。なるほどなるほどー。世界はばらばら、でもそのままいこう、というのは「他人の自由を侵害しない限り、伝統より体験に立脚して自由に自我を延ばしてよい」というまさにリベラルな市場の鉄則である(上記ノージック参照)。自身を含む文系マイノリティっつうのは、豊かな国に、そうやって大量に生まれるのである。この「ばらばら」になった孤独な文系諸人にむけた肯定感が、もてる秘訣なんすね。そういえば、がばいばあちゃんも言っとったで。

……なんて、恋の歌をいちじるしく勘違いしてる男性諸君は、まず「もてない」ことだけは確かであるから気をつけたまえよ。いい音楽だからもてるのだ。つまり上記のような本を読みすぎてもいけない、という教訓的な朗報だ。

 

と冗談はここまで。いうまでもなく、我々の自由の問題と「ばらばら」の問題はすべからくつながっている。かつて多くの人々が田舎のコミュニティをはなれ都市を目指した。自発的でないにしろ、窮屈なコミュニティより自由を選択して豊かな今にいたる。つまり個人の自由とコミュニティは、ある部分では相反する要素をもっているのだ(自由と秩序は補完的なものだ、という意見もちゃんとある。要はバランスなのだ)。

ともあれ、誰かのせいで終身雇用が崩れちゃったから(こういうことばっかり言ってちゃダメですよ)、不景気で自殺がふえちゃったから(東京は数ではだんとつだが、率では地方都市よりはるかに低いことは頭にいれておいて損はない)、じゃあ楽しいコミュニティを増やそう、じゃあ美しい歴史や伝統を復活させよう、みたいな簡単な話じゃない。人間だもの(使い方あってます?)。

コミュニティ論の森はいろんな樹木がまじりあって生えてて、暗い光のもと一本一本を確認しながら進んでいかないと、すぐ迷子になってしまう。というわけで、今年もあと少し。そろそろ忘年会の場所でも考えようかな。ではではアウフヴィーダーゼーン。

 

三品輝起(みしなてるおき)

79年生まれ、愛媛県出身。05年より西荻窪にて器と雑貨の店「FALL (フォール)」を経営。また経済誌、その他でライター業もしている。音楽活動では『PENGUIN CAFE ORCHESTRA -tribute-』(commmons × 333DISCS) などに参加。